Oct 12, 2008
漏水階下の人に迷惑をかけないしています。
私は集合住宅の3階に住んでいます。夜風呂に入ってお風呂の水を洗濯機に移してから眠るのが日課です。風呂水はバケツに入れて持ち運んでいます。ある日、風呂水を洗濯機に移す途中でバケツをひっくり返してしまいました。大量の水が底に流出されています。階下に漏れてしまいました。水は拭いていましたが、しばらくすると下の階の人が来て、水漏れがありますと、不満を言っています。気をつけなければなりません。生活を楽しくすることはできない特別なだけではなく、普通の料理本の生活の様子を少しでもより良いものにしていくのですね。そんな楽しい生活のために、ぜひご紹介したいのは、ウォーターサーバーですね。おいしい水を手軽に飲めるようなウォーターサーバーなら、楽しい生活が保証されます。
6月11日で、東日本大震災3カ月目を迎えた被災地。私は、これまで北は岩手県宮古市、南は千葉県旭市まで訪れ、車での走行距離は2万キロ近くにもなっている。被災地の中でも、何回も訪れた(そして今後も訪れるだろう)場所がいくつかある。今回は福島県相馬市と千葉県旭市について、3月からの変化を見てみようと思う。
【東日本大震災ルポ・被災地を歩く:避難所の閉鎖、仮設住宅暮らし 震災から3カ月、相馬市と旭市の今】
●6月17日、相馬市の避難所「はまなす館」閉鎖
福島県相馬市の総合福祉センター「はまなす館」。最初にこの場所を訪れたのは3月26日だった。6月11日の時点で240人が避難生活をしているが、6月17日をもって、避難所が閉鎖した。ほとんどの人が仮設住宅に移り住む。
「避難所生活の目標は仮設住宅が目標だったので、役割を終えました。3カ月だと6月11日ですが、大安の日を選ぶと14日になります。祝い事になると午前中がこの地方では普通なので、14日の午前中に引っ越した人が多い」
はまなす館で避難所の責任者だった、相馬市社会福祉協議会会長の只野裕一氏はこう話す。「東京電力の職員に避難命令が出て以降、いろいろと混乱しました。ガソリンが不足していたことも影響しています。人口の3割が移転しました」
相馬市は東京電力・福島第一原子力発電所から30キロ圏外ではあるが、風向きを考えると、放射能が飛散してくる可能性もある。原発事故によって、地域全体がナーバスになっていた時期もあった。
震災直後は、相馬市に限らず、物流がストップして、店頭に商品が何もない時期が続いていた。地域内の物流に頼っていたローカルな店舗ほど、開いているところが多かった。地震と津波被害がない地域でも、相馬市内では緊張感が漂っていた。しかし、3カ月経つと、市内は平常を取り戻したかのようだ。
ただ、子どもたちはバラバラになっている。はまなす館は相馬市磯部に住んでいた人たちが多かった。磯部小学校や磯部中学校に通っている子どもたちもいた。震災は卒業式前だったために休止となったが、3月31日に、はまなす館で卒業式・終業式をすることができたのだ。
その卒業式・終業式でインタビューした子どもたちのほとんどは、(偶然だと思うが)磯部小学校や磯部中学校の始業式には姿が見えなかった。転校したようだ。押山海利君(6年生)もその1人だった。6月11日にはまなす館を訪れたとき、磯部小の友達と遊んでいた。
取材ノートを見返すと、3月31日の卒業式前にも、押山君にインタビューしていた。すぐには思い出せなかったが、話している間に思い出してきた。
押山君は現在、大野小学校に転校している。当時の避難所生活についてこう話した。「ここで暮らすのが嫌だった。地区の人と一緒にいるのは安心するけど、知らない人とお風呂に入るのが一番嫌だった」
終業式前の取材では、「みんなとバラバラになるのは嫌だ」と話をしていた。今でも「(学校生活は)まだ落ち着かない」と話す。「まだクラスの友達と地震の話もする」という。「暗い雰囲気も感じる」とも答えていた。部活についても「前のチームのほうがよかった。練習も違う」と戸惑っている様子だったが、最後の小学校生活になるため、「明るく過ごしたい」とも言っていた。
インタビュー中に、磯部小時代の友達に「磯部に戻ってこいよ」と声をかけられていた。
●仮設住宅暮らしは不自由……
『3.11 絆のメッセージ』でも取り上げた大和田茜ちゃん(3年生)は、仮設住宅に移っていた。「掲載本を手渡したい」と電話で母親の育子さんに連絡を取ると、はまなす館まで来てくれた。
茜ちゃんとの出会いは3月26日だった。はまなす館に取材で訪れると、1人で学習スペースにいたのを声をかけた。「春休みはディズニーランドに行く予定だった」と、残念そうに話をしていたのを覚えている。そのほか、好きな勉強についても教えてくれた。しかし、そのときは地震の話はまったくしてくれなかった。その後、磯部小の卒業式・終業式があった時には、茜ちゃんは自分から震災経験を話してくれた。
育子さんに話を聞いた。仮設住宅の様子については「(茜ちゃんは)寝坊するぐらい、よく眠れています。ただ、仮設住宅の近くには川が流れているんですが、また大きな地震がくると言われているので、『また津波がこないか?』と心配です。地震があるたびに怖いですね。原発があるし。この前も地震があったときに、子どもたちは『停電!』って騒ぎました。この前の台風のとき、仮設住宅はビシャビシャで大変だった。2年間というけど、家を建てられないしアパート暮らしなのかな、と思っています」
まだまだ、地震の記憶は消えない。仮設住宅の生活も、快適とは言えないようだ。これまで一戸建てで生活していたために、スペースも、強度も違っている。隣の家とつながっている、いわば「長屋」暮らしだけに気の遣い方も違う。
津波被害のあった家へ、家族で行ってみたこともある。飼い猫は行方不明だ。津波に飲まれてしまったようで見つかっていない。
「家のあったところに連れて行ったこともあります。一番下の子(茜ちゃんの妹)は、家に行くと『早く帰ろう』と言ったりします。(地震のときは)猫を飼っていたんです。でも、まさか家まで津波がくるとは思わなかった。猫は死んじゃったと思う。一番下の子は『ミルくん(猫の名前)は天国に行っちゃったのかな?』『ミルくんに触りたいな』と言ったりします」
●千葉県の被災地、旭市飯岡地区
千葉県旭市飯岡地区。ここを訪れたのは3月19日以来の2回目である。当時は、瓦礫がたくさん残っており、災害ボランティアに登録した人たちがその瓦礫を撤去していた。全壊の住宅を重機が壊していたり、半壊の住宅は、家の人が片付けをしていたりした。まだ震災直後だったこともあり、緊張感はあるものの「東北の被災地に比べればまだいい。だから、我慢しないといけない」といったムードが漂っていた。
6月16日、再びその地を訪れた。瓦礫は撤去され、町並みは一見、平静さを取り戻しつつあった。私は以前取材をした男性を探そうとしたが、その男性の家は取り壊されていた。男性はそのとき、「2階までは浸水していないので、1階を片付けて住む」といったことを考えていたが、3カ月経って来てみると、もう空き地になっていた。
市災害復旧・復興本部によると、5月21日に市内の避難所は閉鎖となった。現在は旭地区と飯岡地区に仮設住宅が建設されている。このうち飯岡地区には、150戸が建設されている。
ここに妻と住んでいる男性(68)は、これまでの避難生活について「震災当時は、飯岡小の避難所に逃げました。ただ、寒いので、冷暖房がある福祉センターへ移りました。飯岡小のほうが知り合いがいたのですが、3階だったので、上り下りが大変だったです」と話す。「隣は知り合いなので交流があります。しかし、2棟隣になると、もう誰かは分からない。ただ、隣との境界はベニヤ板。テレビの音が聞こえたりする」と述べた。
また、お風呂が狭いユニットバスなので、近くにある福祉センターのお風呂に入りにいく。「一回の入浴料は200円なんですが、月1000円のチケットがある。5回は入れば同じ値段なので、月のチケットを買って、たまに入りに行っています」
仮設住宅は原則2年。その後のことを考えているのだろうか。
「私の家は、旭市の中でも、津波被害が最もひどかった地域。家は流されてしまった。そこに住もうとは思うが、プレハブを建てたって、お金がかかる。あるのは土地だけ。売ろうと思っても、もう地代が安くなっているという噂だ。少なくとも購入時よりは安い。息子は東京に来いというが、迷惑をかけるので行かない」
男性は元の場所で住むことを考えている。しかし年金生活では、これから貯蓄するにも限度がある。半年後には収入に応じて家賃を支払わなければならない。先の展望は決して明るいものではない。
●自動車も自販機も流されたが……
避難した他の人は、アパートに行ったり、親類の家に身を寄せた人もいた。そうした人たちが、仮設住宅が決まって続々と入居してくる。この日も、新たに仮設住宅に入居することが決まっていた。
仮設住宅には入らず、自身の家を片付けて復活した「食料品店」がある。この日は、女性(70)が1人で店番をしていた。夫(73)は震災の疲労もあり、入院中とのことだ。
震災当時は、津波は家まで浸水したものの、女性はかろうじて命が助かった。当時を振り返る。
「津波がやってくるとは思わなかった。津波がきたときには、中庭にある木につかまりました。夫は家のテーブルの上に乗っていました。2人とも首まで浸かりましたが、なんとか助かった。でも、いろんなものがなくなった」
女性は当初、飯岡小へ避難したが、その後は親類の家に世話になった。自動車4台も流された。合わせて1000万円以上の損害になるという。また、13台ある自動販売機も3台しか残らなかった。ただ、メーカーが新しい自販機を用意してくれたので、今では13台ともに戻っている。商品の値段も安いため人気のようで、訪れる客が絶えなかった。
●「自立」とともに「孤立」も進む
避難所生活から仮設住宅に移ったり、自宅に戻ったり、時間が経つにつれて被災者の生活パターンはさまざまになっていく。
こうした状況は、「自立」の意味ではよいかもしれない。しかし、逆に「孤立」を生むこともある。その孤立を防ぐために、市では戸別訪問を実施して、健康チェックをしている。また、仮設住宅に住んでいる人を対象に健康相談会をすでに2回実施した。
市の健康管理課では、栄養や運動の不足に対する指導を含めた健康相談を行っている。65歳以上の住民には「高齢者福祉課」が対応、65歳未満の住民は健康管理課が対応する。とはいえ、実際には高齢者福祉課と連携をしているので、一定の把握はしている。
「ストレス症状を訴えた人は、避難所のときはいましたが、現在は、旭中央病院の『心のケアチーム』も戸別訪問をしているので、フォローアップに努めています。心の問題は外傷とは違って目に見えにくい。3カ月経って落ち着いていますが、(心のケアは)むしろこれからの問題。継続していきたい」(保健師)
日常的な生活支援については「必要があれば、民生委員を通じて対応することになっています。目標は、元の生活に戻せるか、です」(同)と話している。
ただ、ある民生委員は「被災者には説明できない思いが数々ある」と悩む胸の内を明かす。「私は家は流れていないが、流れてしまった人もいて、これから先どのように仮設住宅を訪問したらいいのか分からない。だから、まだ私は1回も訪問していない。積極的に動いていいのか。それが余計な口出しになってはいけないから、消極的に待っていたほうがいいのか……行政でも決め手がないものを、私たちにも分からない」
仮設住宅はプライベート空間だ。避難所とは全く違う。震災によって生活の支障をきたしても、部屋に入っていれば、隠すこともできる。隠すには隠すだけの理由がある。一人暮らし世帯であればなおさらだ。民生委員も重要な役割を果たす部分はあるが、まずは保健師らの専門職のチームが問題に気づき、必要であれば民生委員につなげるのも1つのアイデアだ。災害による孤独死は最も避けたいことだが、仮設住宅になった今、支援と自立の狭間で揺れている。
【渋井哲也,Business Media 誠】
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